トイレもシャワーも共用の、古い学校のような宿で目が覚めた。未明の静寂の中で妙に目が冴え、遠山(とおやま)は、まだ人気のない町をぶらついた。
圧迫してくるアンデスの青黒い量感。切るような冷気。。朝露に湿った石畳の道。息を潜めるようにして身を寄せ合う、日干しレンガの家並み・・・。うっすらと明けてゆく空の下で、漆喰の白壁に殴り書きされた落書きが遠山の足を止める。
「Che vive mas que nunca」
落書きは、それほど古いものではなかった。
「チェは永遠なり。ゲバラは死なず」
白い壁に赤いペンキで書かれた、乱暴だが力の籠もった文字が何かを訴えている。
その時、地鳴りのような足音と人々の叫び声が冷気を震わした。異様な気配に驚き、軒下の巣から燕たちが飛び立つ。
「チェは生きている!
心の中で生きている!!」
熱を帯びたシュプレヒコールが、緩やかに傾斜して下る石畳の道の先から近づいてくる。声は、剥がれ落ちた漆喰の白壁と赤茶色の屋根瓦の家並に反響し、アンデスの澄み切った蒼穹へ昇ってゆく。
ブラジル・アマゾンで土地闘争を続けている先住民グループ、「シン・ティエラ」のメンバー数十人とボリビアの支援グループとの混成デモ隊。町の中央広場へと進む隊列に怯えて、肋骨の浮いた3匹の野良犬が足を引きずりながら路地へ逃げ込んだ。天空では、天と大地を繋ぐ神の使者、大きな羽根を広げたコンドルの群が悠然と弧を描いている。
ボリビア、サンタクルス州、カミリ地方バジェグランデ村。標高2000メートルに位置するアンデス山間の村に人々が集まり始めた。人いきれがアンデスの冷気を温め、村が目覚める。
キューバからボリビアに渡ってゲリラ戦を繰り広げたチェ・ゲバラ。不屈の男が死んで35年が経つというのに、人々は今でも彼の生き方と死に方を称えている。
ゲバラは人々の中で死んでいない。人々が死なせなかったのだ。ゲバラという男は、そういう種類の英雄だった。だから、伝説になった。
遠山は、今日がゲバラの命日だったことを思い出した。35年前の10月8日、ゲバラはこの近くの渓谷で負傷して捕らえられ、イゲラという名の小さな村に連行されて翌朝に銃殺された。
バジェグランデ飛行場の敷地に人知れず遺体が埋められてから30年が経ち、やっと遺体が発掘されてからも5年が経っている。35年といえば長い時間だ。しかし、それでも人々はゲバラを忘れようとしない。これほど長い間、現実感と親近感をもって人の中に生き続ける男がいるだろうか・・・。
もしかすると、ゲバラは本当に生きているのかもしれない−−遠山は、ふとそう思った。