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伝説 <後編>

 
 

 バジェグランデを出て西に向かった。土の道はアップダウンを繰り返しながら、アンデスの懐深くへじわじわと分け入ってゆく。
 バジェグランデから80キロ。一度、2600メートルまで上った道が、深い渓谷に向かって逆落としに下がり始めた。眼下に、陽光を照り返して銀色に輝く川の流れが見える。リオグランデの流れだ。
 無理矢理迂回させられた道は石だらけの広い河原へ下り、涼しい音を立てる流れの中に消えていた。左右から急峻な山肌が迫るユーロ渓谷−−そこは、チェ・ゲバラが負傷して捕らえられた場所だった。
 地図に載っている橋は老朽化して使われておらず、平行して架けられた橋はまだ建設中で、未だ武骨な骨組みしか組み上がっていない。対岸に渡るためにはリオグランデの流れを突っ切るしかなかった。
 ギアーをサードまでシフトアップし、勢いをつけて流れに突っ込んだ。頭の中に描いたラインをなぞりながら水を掻き分けて進む。30メートルほど進んだあたりで急に深くなり、水が一気に太股あたりまでせり上がってきた。遠目で見ていたよりずっと流れの力は強く、車重200kg近いオフロードバイクがフワリと浮いて傾いた。遠山(とおやま)は慌ててバイクから飛び降り、流されそうになりながらバイクを押して対岸へ渡った。
 キャブレターまで水が入っていて、エンジンがかからなかった。キャブレターとエンジンから水を抜き、プラグや電気系統も乾かさねばならない。
 悪戦苦闘の末にエンジンが息を吹き返した時には、すでに太陽が西の稜線にかかろうとしていた。宿がありそうな町までは300キロ近くあり、しかもこの先、標高はさらに1000メートル以上高くなる。
 遠山は居直って覚悟を決め、河原でビバーグすることにした。流木で焚き火を興し、川の水を沸かしてコーヒーを淹れ、バージェグランデで仕入れたチーズとナッツを頬張る。
 暗くなると風が出てきた。川の両岸からは切り立った山塊が黒い壁となって迫り、頭上には鏡のような月が浮いている。
 月光に、深い渓谷が青く浮き上がっている。山峡を吹き抜けてゆく風と川の流れの音に混ざって、時々、焚き火の爆ぜる音が聞こえる。

 −−この風景を、39歳だったゲバラはどんな想いで見ていたのだろうか・・・。

 ゲバラの、あの髭面と、遠い所を見るような澄んで力強い目を思い出した時、馬に乗った一人の男が対岸に現れた。その顔はシルエットになっていてよく見えないが、長い髪にベレー帽のようなものを被っていることは分かった。肩から下げているのは銃だろうか。
 男は黙って片手を挙げてから、馬の腹に軽く踵を当てた。馬は流れに沿ってそろそろと歩き始め、やがて馬を乗せたまま闇の中に吸い込まれて消えた。
 後に、流れと風の音だけが残った。遠山の体に鳥肌が立ったのは、しばらくしてからだった。

終わり