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老いた旅人 <後編>

 
 

 長い時間に感じられたが、出ていった男がもう1人別の男を連れて戻るまでに、実際には10分も経っていなかっただろう。意外なことに、連れてこられたのは日本人だった。しかも相当な年寄りだ。洋(ひろし)の父親より齢が上なことは間違いない。老いた日本人は洋を一瞥しただけで何も言わず、その脇に立った。枯れ木のように細い体で、飄々としていると言えば聞こえはいいが、要するに存在感が稀薄でいかにも頼りない。
 背広のモロッコ人がフランス語で何か言うと、老いた日本人は頷いてから洋の方を見た。
「軍の施設や車輌を写真に撮ってはいけないと言っているよ。君、何を撮ったの?」
「道端に止まっていた装甲車やジープです」
「そりゃまずいね。ここいらの連中はみんなピリピリしている。妙に抵抗して刺激すると、何されるか分からないよ。ここはひとつ、素直にフィルムを渡した方がいいね」
 老いた日本人は、洋の手のデジカメを見ながら声を潜めて言った。今までに撮ったスナップがふいになるのは悔しいが仕方なかった。洋は、渋々カメラからメモリースティックを出して老いた日本人に渡した。
「何?これ」
  老いた日本人の目が丸くなる。
「メモリースティックです」
「つまり、フィルムみたいなもの?」
「そうです」
「こんなもんで写真が撮れるんだね」
 老いた日本人は感心したような呆れたような目でスティックを見つめ、フランス語で何か言いながら背広のモロッコ人にそれを渡した。モロッコ人もスティックを不思議そうに見つめた後、脅すようなフランス語を洋に投げつけた。
「くれぐれも、軍の施設や車を写真に撮るなと言っている。今度やったら、刑務所行きだそうだよ」
 訳してくれた日本人に向かって洋が頷くと、背広のモロッコ人が手で蠅を払うような仕草をした。
「早く出よう。こんな所に長居は無用だよ」
老いた日本人に急かされて席を立ち、部屋を出て階段を下りた。何故か、老いた日本人も一緒についてくる。
「通訳の方なんですか?」
 薄気味悪くなって訊くと、老いた日本人は笑った。
「こんな所に日本人の通訳がいるわけないでしょ。フランス語の分からない日本人がいるから通訳しろって言われたんですよ。逆らうと何されるか分からないからね」
 警察署から出ると眩しい光が洋の目を刺した。埃っぽい街路を、さっきまでと何も変わらないように人が往き交っている。
「実はね、私も捕まってたの」
 歩きながら、老いた日本人が喋り始めた。
「昨日、着いてね。安い宿を見つけて部屋に入ったら、丁度陽が沈むところでね。夕焼けがあんまりきれいだから、2階のベランダからスケッチしたんですよ」
「絵描きさんなんですか?」
「とんでもない。ただの自己満足」
 老いた日本人は肩を竦め、話を続けた。
「そしたら今朝ね、警察の人間が宿に来て、署に来いって言うの。何のことやら分からんかったけど、どうやら、夕陽が沈む方向に軍の基地か何かあったらしいのね。私がスケッチしているのを見て、誰かが警察に通報したんだね」
「で、どうなったんんですか?」
「お前はスパイかとか、色々訊かれてね。フランス語が少しできたりするもんだから、余計疑われちゃって。パスポートとか色々見せて、やっと無罪放免って時に君が連れて来られたってわけです」
「お陰で助かりました。フランス語なんてさっぱり分からなかったので」
「つたないフランス語が役に立って何よりでした。自分で言うのもなんだけど、言葉だけは覚えるのが早くてね。リズムとか、音感で覚えちゃうのかな。旅をしている内に、英語もフランス語も何となく喋れるようになりました。中国語は戦時中に覚えたんだけど・・・」
 長くなりそうな話を遮るように洋が訊いた。
「いま、おいくつなんですか?」
 洋が訊くと、老いた日本人は足を止めた。
「75歳です。本当は78歳だけど、戦争の3年間は私の人生じゃないから、3歳分引いているんです」
老いた日本人はとぼけた顔で言い、スタスタ歩き始めた。老いた日本人の薄っぺらな背中が、しかし洋には頼もしく見えた。

終わり