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No. 52

シャコ貝の島 <後編>

 
 

 「この島の名前、ヴァスアというのはどんな意味なんですか?」
 話のきっかけをつくるつもりで訊いてみた。
 「ヴァスアとはシャコ貝のことだ」
 「島の近くでシャコ貝がたくさん獲れるとか?」
 「そうだ。今でもたくさん獲れるが、昔はそんなものじゃなかったらしい。ばかでかいシャコ貝が海の底を埋め尽くしていたと爺さんから聞いたことがある」
 マヌーは、レモンの葉で淹れた茶を啜る。
 「この島にはロマンチックな言い伝えがあるのよ」
 リシイも話に加わってきた。マヌーが、その後を続ける。
 「昔、1人の旅人がこの島に来た。旅人は歓迎され、この島がすっかり気に入ってしまったんだが、しかしどうしても気になることがあった」
 「何ですか?」
 「昼間は若い男も女もいるんだが、陽が沈むと年寄りと子供だけになってしまうんだ」
 「それで?」
 「ある日、陽が沈む頃に若い男と女が海に潜ってゆくのを旅人が見たんだ。2人は、暗くなっても海から戻ってこない。そこで、水中トーチを手に旅人も海に潜ってみたんだ」
 「で?」
 気がつくと、塩野谷は身を乗り出していた。
 「さっきの若い男と女が、口を開けたばかでかいシャコ貝の中で抱き合っていたんだ。トーチを動かしてよく見ると、他のシャコ貝の中でも若い男と女が抱き合っている。まっ暗な海の底で、男と女たちが睦み合っていたんだよ。シャコ貝は、人目を忍ぶ恋人たちのベッドだったってわけだ」
 塩野谷の肩から力が抜けた。いくらなんでも馬鹿馬鹿しい。
 「この島に若い人がいないのは、シャコ貝のせいだって言い伝えなのよ」
 リシイが真顔で言う。
 「でも、恋人たちが海に潜るのは夜だけなんでしょ?」
 「ある日から、明るくなっても、誰も海から戻ってこなくなったそうよ。ずっと抱き合っていたかったのね」
 淡々と言うから妙に説得力がある。
 その時、1人の娘が風に運ばれるように居間に入ってきた。褐色の肌に青い瞳で、齢は17、8歳。白いスールーで包んだ体はスレンダーで、鳶(とび)色の髪が背中まで届いている。
 「娘のセラだ」
 マヌーが紹介した。
 笑みを浮かべると、光沢のある頬に笑窪ができた。小さな声で「ブラ」とだけ言い、セラは奥の部屋に消えていった。後に、体にまとわりつくようなバニラの甘い匂いが残った。
 「で、その旅人はどうなったんですか?」
 話を思い出し、塩野谷が訊いた。
 「彼にも恋人ができて、2人で海に入っていったそうよ」
 「で?」
 「彼らも、そのまま戻ってこなかったんですって」
 リシイが意味あり気な笑みを浮かべた。なんとなく、背中のあたりが寒くなった。

終わり